2020年8月31日

ブランド戦略コンサルの「世間と社会」論

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こんにちは。ディープビジョン研究所です。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。

今日のコラムでは、ブランド戦略コンサルタントの江上が、
独自のブランド戦略コンサルタント論をお伝えます。

それでは、早速。

 

 

きょうは、
ブランド戦略コンサルタントの
「世間と社会論」です。

 

世間ということばがあります。
社会ということばもあります。

 

世間ということばは、
世の中ということばの
そばにあります。

どちらも、仕組み的なものより
感情や人間を感じさせます。

 

実は、世間は
もともと仏教用語です。

出世間(しゅっせけん)
ということばもあって、
これは世間を出たところの世界です。

そして、世間は
“迷いの世界”という意味らしいのです。

世間は揺れ動きます。

欲世ということばもあるように
欲に左右される煩悩の世界が
世間ということばの意味に
込められています。

 

対して、
社会ということばがあります。

英語のsocietyを訳したときに
つくったことばです。

 

もともと社会ということばは
日本にはありません。

 

したがって、
「仲間連中」「人間交際」とか
「仲間」「組」「連中」とかの
訳語を当てていたようです。

 

でも、どれもぴったりしない。

ただ、当時、仲間が集って
「~社」という名づける
ことばが流行っていました。

つまり、結社です。

この「社」は「やしろ」とも
読むように、土地の神様
あるいは神様をまつる御殿、
という意味があります。

そして、もともとの意味を探ると
こうした神様のお祭を通じて
形作られた集落という意味に
行きつきます。

つまり、血縁、地縁の
運命を同じくする仲間の集い。

「社中」ということばを
ご存知でしょうか。

これは目的を同じくする人々で
構成される仲間や組織のことです。

だから、会社の同僚は社中です。

社会は、そうした「仲間が
たくさん出会っている場所」なんですね。

 

欲を基本として情に左右される「世間」。
神を基本として仲間とともに居る場所である「社会」。

 

わたしたちは、
この二つの人間の暮らす場所を
行き来しながら生きています。

世間が強すぎても、社会が強すぎても、
うまくいきません。
(特に日本は、と思います)

いまのスマホ大衆民主主義は
どうも世間の力を強くするようです。

私たちは0、1のデジタル環境の
瞬間的かつ膨大な情報の中で生きています。

そのためか、
答えが出ない中で、その状態に
耐える力を失っています。

「知らない」ということに
謙虚ではなくなっています。

それは理知で耐えることができずに、
感情に流されやすくなることを意味します。

世間の情は、愛情もあれば
非情も、煽情も、無情もあります。

感情はある意味、
暴力的なエネルギーでもあるのです。

その暴力が
私たちを支配しそうになったとき、
理知が原理である社会のチカラを
取り戻さなくてはならない。

 

太平洋の、向こう岸の国の
赤いネクタイの方を見ていると
よく、そう思います(笑)。

向こうの国には
世間という概念はありません。

しかし、
情に流されているという意味では
世間と社会のバランスが悪くなっている。

そうしたアンバランスは
この星の全体に広がっています。

それをバランスさせるには
「理知のチカラ」と、
そして意外かもしれませんが、
「ユーモアのチカラ」が
必要だと私は考えています。

 

なぜなら、
最も高度な理知のチカラが
「ユーモア」だと思うからです。

 

ズラス、いなす、反転する、
パロディ、コメディ、毒舌・・。

恐れを行動原理にする私たちの弱さに
笑いの花束を、ユーモアの戦略を!

 

地球は、生命にとって
楽しい星でなくてはならない。

・・・ということです。

ちょっと変な結論ですか(笑)
では、では。

 

 

いかがでしたか。
次回の更新もお楽しみに!