2021年3月22日

「分からない」ということの可能性

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こんにちは。ディープビジョン研究所です。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。

今日のコラムでは、
ブランド戦略コンサルタントの江上隆夫が、
「分からない」ということの可能性、についてお伝えします。

マルクス、資本論、儒教、聖書。
さらに野球やクリケットへと
「分からない」ということの可能性を展開します。

最後までお付き合いいただけたらうれしいです。
それでは、早速。

 

 

きのう、友人と話して。

マルクスが分かりにくい。

というか、
ぼんやりとしか、
分からない。

挫折した。

だから、マルクスは
不親切だ、と。

言うのですね、やんわりと。

その友人は。

これは違うよね。

分かりにくいのは分かる。

だって、資本論が刊行されたのは
1867年です。

1867年は慶応3年。

つまり、明治維新の前年。

江戸時代なのです。

その約150年昔、
イギリスの労働者の
あまりに劣悪な労働者の
劣悪な環境に怒ったマルクスが
資本と労働の「原理的」な仕組みを
考察したのが資本論。

ちなみに
書いている筆者も、、、、

ぜんぜん読み通せていないので(笑)

まったく、その友人と
同じ穴のムジナであることは
言っておきます。

分からない、と。

むつかしいね~、と。

でも江戸時代に
書かれた資本と労働を
原理的に考察した本が
まず、分かりやすいはずがない。

ちなみに
その1867年の日本の出版物は

福沢諭吉《西洋 衣食住》和本2冊,自家版.
桂川幹甫編《法朗西文典字類》和本,自家版.
福沢諭吉訳《条約十一国記》和本,自家版.
ヘボン《和英語林集成》横浜・自家版.(平文辞書と俗称)
柳河春三訳《写真鏡図説・前篇》和本,自家版.

どれも知りもしない。

同国人として読み通せる
自信もない。(笑)

ということは
150年前の産業資本の論理と実際、
労働者の実体と、資本と労働の関係を
少しでも知って。

さらには、その前提で原理的に
「商品」「貨幣」「剰余価値」「資本」「労働」などを
考察した本が資本論という知識があって。

その上で、
丁寧に読まないと
分かるわけがない。

しかし、時代を経て多くの人が、
この本は重要だと言うのであれば
それはある種、バトンリレーされてきた、
私たち人間の知的遺産であり、
ある種の歴史的問いだ、
ということだけは分かります。

時をリトマス試験紙に、
ろ過紙にして残ってきただけでも
大したものなのじゃないですか。

でなければ
中東のガリラヤ地方の
30歳過ぎのやもめの
大工の息子のことばが
THE BOOK「聖書」として
2000年形継がれることもないし。

2500年前の貧乏な巫女の、
名も知れぬ子どもが
苦労のうちに成長し、
その苦労の過程で獲得し、洞察した認識が
「儒教」のもととなる「論語」を
生み出すこともなかっただろう、と思う。

150年の時を経るだけでも
大層な価値があることは確かである。

その150年の時を想像せずに
「分かりにくい」ということは
一種、強烈な傲慢さである。

「わたしに分からないことは価値がない」

この場合、いまの「自分を、わたしを、
前提としてはいけない」のである。

そのダメなわたしそのもの
つまり、分からない私が至らないのであって
150年の執筆者に責任を負わせようと
すること自体が100万年早い(笑)

、、、と自分自身に対しても思う。

 

野球を知らない人が居たとしよう。

玉を投げる人がいて、
棒でそれを打っている。

玉が棒に当たれば走る。

でも、1塁、3塁、へたすりゃ2塁にだって
走ってもいいじゃん!

三つ空いているところがあるじゃん!

その前に、
何で棒に当たらなきゃ
走れないの?

当たっても当たらなくても
走ればいいじゃん。となる。

野球のルールと制約を知ることが
野球を理解し、楽しむこと。

それはイコールである。

野球が分かる、楽しめる、
さらには野球を批評することは
前提を理解することなしには
あり得ない。

そして、前提を理解し、共有してこそ
それらは可能になるのである。

私は、野球は楽しめても
その元となった
クリケット競技は楽しめない。

だって、前提が分からないから。

そして、知りたくもない、
と言えば、これは
クリケットに対する罵倒である。

そして、もし
クリケットがつまらないし、
よくわからないのは、
クリケットを創り上げた誰かが
不親切だからダメなのだ、
と言うのなら。

10億人のインド人と
合計9000万人超の
イングランド人、
オーストラリア人を
敵に回すことになる。

資本論は、そのルールが
多少複雑なだけである。

人は分からないことに対しては
謙虚であるべきだろう。

「分かろう」という謙虚さは
成長の基盤ですよね?

それがない人間は
傲慢と謗られても
仕方がないのでは?

だって、それは
今現在の世界のあり様を
自分の小さい認識上でしか見たくない、
と世間に宣言することだし。

新しい認識が
自分を変えてしまうことを
拒否する態度でもあるからだ。

もったいないなあ。

それは、いまの自分の状態に
居つくということであり。

また可能性に対して閉じた状態になる、
と言うことである。

申し訳ないが、
私個人は、この状態は
とてもじゃないが耐えられない。

 

自分の小さい認識の中から
出ることがないというのは
監獄に入って
一生を過ごすのと一緒だ。

 

「分からないこと」は
私にとっては、
大きな可能性である。

その可能性を
捨てようとは思わない。

 

マルクスがたとえ分からなくても、
「分からない」可能性を
楽しんで生きる。

「分からない」可能性に対して
開かれた自分でいる。

そっちの方が100倍いいなあ、
100倍人生楽しめるなあ、
という確信だけはあるのですが。

あなたは、どうですか?

 

 

いかがですか。

ぜひ、貴社の、あなたのブランディング戦略に
お役立て下さい。

引き続き、今週のヒマラヤFMも
メッセージに引き続きお聴きください。

 

神は細部に宿る、
と言いますよね。

ブランドも、
細部に宿ります。

昔々、仕事で
2度ほどイタリアに行くことになって。

いま思えば、
ものすごく贅沢な仕事でした。

イタリアの
世界的なデザイナー、
モスキーノやドルチェ&ガッバーナに
会ってインタビューしたり。

もう亡くなりましたが、
会ったときモスキーノさんは
機嫌悪くて
たいへんでした(笑)

ドルチェさんは
ご機嫌でしたが。

あるいは、
イタリアン・ヴォーグの
編集長に会って話を聴いたり。

世界的な建築家、音楽家や
一昨年亡くなったイタリア料理界の
巨匠グァルティエロ・マルケージの
三ツ星料理を食べて
彼にインタビュ-したりとか。

まあ、贅沢ですね。

1月頭から2週間ほどミラノを
拠点に取材・撮影をしていました。

それで、この仕事の合間に
ミラノのモンテナポレオーネ通りの
ジョルジオ・アルマーニ!本店で
買い物をしたんですね。

それが、いまだに
記憶にありありと甦る、
強烈なブランド体験でした!!

ちょっとしたブランド創造の秘密。

今週のヒマラヤFMは以下から、どうぞ。

第182回ブランディングの作法-その10_ディティールにブランドを宿せ
https://www.himalaya.com/ja/player-embed/99846/132832213

次回の更新もお楽しみに!